「中居正広」地元・藤沢の幼少期を知る隣人が明かす“虚飾のサクセスストーリー” 「貧困なんてウソ」「玄関には書籍がずらり」

中居正広(52)と女性とのトラブルは、フジテレビを巻き込む大騒動に発展し、中居のタレント生命までも絶つことになった。1月23日、中居は「本当にごめんなさい。さようなら…」と引退を表明し、騒動後は表舞台に姿を現していない。今回の騒動で、パブリックイメージとは異なる中居の“裏の顔”の一端が明らかになったが、中居はこれまでどのような半生を送ってきたのか。出身地である神奈川県藤沢市で、彼の素顔を知る人たちを取材した。

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中居が生まれたのは、神奈川県藤沢市の鵠沼。藤沢市はサーフィンやマリンスポーツの愛好家が集うことでも知られる湘南エリアだが、中居の生家を訪ねると、すでに家屋は取り壊され、その跡地にはマンションが建っていた。古くから近隣に住む80代の女性はこう話す。

「私は(中居が)小さいときから”正広”と呼んでいました。彼の家は、今はマンションの駐車場になっている場所にありました。一戸建ての平屋でね。家族は父、母、3人兄弟の5人暮らしで、正広は末っ子です。私たちとは家族ぐるみの付き合いをしていて、うちの娘の方が彼より歳上なので、正広が『お姉ちゃん』と言って、よく一緒に遊んでいたんですよ。正広の家は全員男兄弟で、女のきょうだいがいませんでしたから。当時は中居家が住んでいた平屋と同じような家が20戸くらい並んで建っていましたね。転勤した会社員が多く住んでいる借家でした」

中居の幼少期についてはメディアで「貧困を経験した」と紹介されることも多い。中居本人もテレビ番組で「4畳と3畳半くらいで、天井が低かった」「何もなくなると“水かけご飯”を食べていた」と明かしたこともある。実際はどんな暮らしぶりだったのだろうか。前出の女性は笑いながらこう話す。

「(テレビでの発言は)びっくりしたね。お涙ちょうだいなんですかね。本人が(目の前で)それを言ったら、私は『あなた、そんなウソつくんじゃないよ』と言いますね。奥さん(中居の母)はマメに手料理を作っていたし、ウチよりもいいものを食べていましたよ。奥さんが『ご飯よ』って声をかけると、子どもたちはすっとんで帰っていました。うちの子が帰って来ないと、中居さんのところで、ごちそうになっているんじゃないかと迎えに行ったくらいですよ。自宅におじゃましたときには、お茶とお茶菓子が出ました。正広もきちんとした身なりをしていましたよ」

母は専業主婦で父は教育熱心

平屋の外観や、普段の暮らしぶりはどうだったのだろうか。

「そんなボロボロの家ではありませんよ。普通の借家です。正広のお父さんは決まった時間に出勤して、残業してもきちんと帰って来ていた。奥さんは専業主婦。3人の子どもと妻を養えるくらいの収入はあったということです」

よく語られる中居の“サクセスストーリー”としては、困窮した少年時代を送ったことから成功して高級マンションに住むようになっても、古い物を大切に長く大事に使う性格になったというエピソードがある。これについては「しつけがよかったからだろう」と前出の女性は話す。

「奥さんが子どものしつけには厳しい人でしたからね。まじめできちょうめんな方で、家の中はいつもキレイに片づいていました。正広はうちに遊びに来たら、砂場で遊んだ後だったら、ちゃんとズボンをはたいて、汚れていると、脱いで上がってきました。家に入ったらまず、手を洗ってから遊ぶ習慣もあった。帰るときにはおもちゃを必ず片づけていましたよ」

こうしたしつけが行き届いていたうえに、両親は教育熱心でもあったという。

「奥さんは勉強家でした。町内会の回覧板がまわってくると、奥さんの字が書かれているんですが、それがものすごく達筆でね。お父さんもすごく教育熱心でした。正広には『学校から帰ったら本を読みなさい』と言っていて、玄関には書籍や絵本がずらりと並んでいた。今日は正広が遊んでないなと思ったら、座って本を開いて読んでいたこともあります。『あんた意味わかるの?』と聞いたら『わかる』と言っていました」

中居は近所で遊ぶ時は電信柱に登ったり、やんちゃで元気のいい男の子だったという。父親とブロック塀にボールを投げてキャッチボールの練習をしていた姿もよく目撃されていた。だが、上の2人が男の子だったことから、母親は3人目は女の子がほしかったようだ。

「だから、奥さんが正広に女の子の服装をさせていたこともあるんですよ。私が笑ったら、奥さんが『あなたは娘さんがいるからいいけど、私はいなくて寂しいから、ちょっとだけ女の子の服を着させてるの』と言っていたのを思い出します」

地元のパチンコ店で「息抜き」
中居が小学5年生になると、中居家は同じ藤沢市内ではあるが、辻堂へ引っ越していった。藤沢市内にある理髪店の店主はこう話す。

「中居くんは辻堂でも2度、引っ越しているんですよ。ヘアサロンのモデルをやったことがあり、応援している地元の業者もいます」

そして、前出の女性はこう続ける。

「引っ越した後、たまたま奥さんと会ったら、『正広は東京に住んでいるのよ。SMAPって知ってる? 偉くはないけど、おちゃめなところがあるから、リーダーをしてるの。私は長男たちと暮らしている』と話していました。私は演歌以外は聞かないから、SMAPを知らなくてね。後で子どもたちに聞いて、SMAPって有名なんだと知ったんです」

中居は1987年に旧ジャニーズ事務所に入所。ジャニーズJr.内の「スケートボーイズ」のメンバーを経て、翌88年4月に結成されたSMAPのメンバーとなった。高校は、地元の平塚学園高校へ進学したが、高校2年から東京都立代々木高校(現・東京都立世田谷泉高校)に転校した。当時を知る芸能プロ関係者はこう話す。

「木村拓哉も中居と同じ1972年生まれだから、代々木高校では同級生で、同じクラスだったんです。定時制高校だったから授業は午前中だけ。アイドル志望の女の子2人も、中居と木村と同じクラスでした。中居は『おい、今日は事務所に内緒で遊びに行こうぜ』って、4人でよく遊びまわっていた」

中居はSMAPとして成功してからも、時々は地元に帰っていたようだ。中学の後輩はこう話す。

「中居のゴルフの仲間が地元にいて、ゴルフをしたついでに藤沢にも寄って、酒場、焼き鳥屋、ラーメン屋へ行ったりしていました。お酒は焼酎の水割りを飲むくらいで、あまり料理も食べませんね」

付近の飲食店を取材すると、今はもう廃業した焼き鳥屋のオーナーは「中居くんが来たことがあるけど、1、2度ですよ」と話し、すし店のオーナーは「私の前の代のとき来てたみたいですよ」と言う。ここ数年はあまり地元の商店街には姿を見せていないようだ。ある飲食店の店主はこう話す。

「4~5年前、中居くんがちょうどパチンコ店から出てきた時に、ばったり出くわしました。忙しい人だから、ぱっと地元に来てパチンコをして、息抜きしているんだなと思いました。中居くんは礼儀正しく、『中居です。今度、店に寄らせてもらいますので』と約束してくれたけど、それから病気になってしまい、結局、まだ来てないですね」

「芸能界に長くいて魔が差したのかな…」
地元の人の多くは、やはり中居のことを応援しており、芸能界で活躍している彼を誇りに思っているようだった。そんな地元のスターが女性と深刻なトラブルを起こし、芸能界を引退したことについてはどう考えているのか。前出の80代の女性はこう語った。

「私の息子は正広を小さい頃から知っているから『そんな悪いことをする子じゃないのに』と言ってました。やんちゃではあったけど、すぐにキレるような子じゃないし、素直な子ですよ。でも、今回は問題が大きすぎるわね。芸能界で偉くなったから、みんなに憎まれちゃったのか、もしくは芸能界に長くいて魔が差したのかな……。会社(フジテレビ)も隠す必要はないと思うの。そうしないと、この後、正広がどうなっちゃうのかしらと心配で……」

ただ、中居を知る芸能関係者はこんな一面も話す。

「中居くんは独身だし、女性からチヤホヤされ、自分が口説けばどんな女の子でも落ちるという傲慢(ごうまん)な考えになってしまっていたんじゃないかな。それでいて、結婚はしたくない人だから。元アイドルが結婚すると、今までバックアップしてくれた熱烈なファンが離れるという心理を、中居くんはよく知っているから。だから52歳になっても独身を貫いていたんでしょう」

湘南で育った純真な少年は、知らず知らずのうちに芸能界の闇に染まってしまったのか……。自業自得とはいえ、その代償はあまりに大きく、中居の未来はいまだ見えない。

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