𝟏𝟎𝟎年前、甲子園球場が完成した𝟏𝟗𝟐𝟒(大正𝟏𝟑)年𝟖月、第𝟏𝟎回全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)が開かれた。
大会中、来賓席に訪れていた阪急電鉄創業者の小林一三(𝟏𝟖𝟕𝟑~𝟏𝟗𝟓𝟕年)を球場建設を指揮した阪神電鉄代表取締役の三崎省三(𝟏𝟖𝟔𝟕~𝟏𝟗𝟐𝟗年)が出迎える。
「やあ、いらっしゃい、小林さん」
「こんにちは、三崎さん。盛況つづきだそうで、おめでとう」
こんなシーンが小説『甲子(こうし)の歳』(ジュンク堂書店)に描かれている。発行は𝟏𝟗𝟖𝟑年𝟖月𝟏日。著者は三崎の四男・悦治(筆名・舞坂悦治)である。
あとがきに三崎の日記、阪神電鉄社史や<亡兄の書き残した省三のエピソード>を基にしており、<一部フィクション>とただし書きがある。三崎と小林の甲子園球場で対面していたのは事実だと推察する。さらに会話の内容も両者の思いが反映されているとみている。
小説では大阪毎日新聞(大毎)記者の高田元三郎(𝟏𝟖𝟗𝟒~𝟏𝟗𝟕𝟗年)が同席している。高田は大正期にワシントン会議(𝟏𝟗𝟐𝟏年)、ジェノア会議(𝟏𝟗𝟐𝟐年)を密着取材するなど、国際ジャーナリストの先駆者的存在だった。
阪神、阪急が野球と関わるようになったとき、それぞれ、大毎が絡んでいた。
阪神電鉄は𝟏𝟗𝟏𝟎(明治𝟒𝟑)年秋、大毎から国際試合、シカゴ大―早大の関西開催を打診された。当時技師長だった三崎はこれに応じ、香櫨園遊園地内に急ごしらえでグラウンドを造成した。三崎は米国留学時代、野球に親しむ光景を目の当たりにし、その魅力を肌で知っていた。
大毎は𝟏𝟎月𝟐𝟑日付で見開き𝟐ページの特集を組んでいる。𝟐𝟓日の第𝟏戦の観衆は𝟑万人と記事にある。
阪急は沿線開発、集客のため、𝟏𝟗𝟏𝟑(大正𝟐)年、豊中運動場を建設。𝟔月に慶大―スタンフォード大の日米野球を開催している。𝟏𝟗𝟏𝟓年𝟖月には第𝟏回全国中等野球優勝野球大会(大阪朝日新聞主催)を開催している。
小林は慶応義塾在学中に早慶戦で野球の面白さに触れていた。関東大震災で解散となっていた日本初のプロ野球チーム(𝟏𝟗𝟐𝟎年設立)、日本運動協会(通称・芝浦協会)を引き受け、𝟏𝟗𝟐𝟒(大正𝟏𝟑)年𝟐月、宝塚運動協会を発足させている。同協会は海外遠征のほか、実業団の強豪、大毎野球団と定期戦を行い、人気を呼んでいた。
小林は雑誌『改造』𝟏𝟗𝟑𝟓(昭和𝟏𝟎)年新年号に<職業野球団設立の機運はやや熟してきた>と一文を寄せている。阪急(宝塚)、阪神(甲子園)、京阪(寝屋川)、東京の京成、東横(現・東急)など野球場を持つ鉄道各社が春秋𝟐期制でリーグ戦を行い、優勝を争う。入場料と運賃収入で球団の経費はまかなえる。腹案として抱いていた構想を披露したわけで<この案の成立に大毎運動部は相当に努力しているけれど、いろいろの事情で実現しないのを遺憾に思っている>と記していた。
小説では、第𝟏回を阪急の豊中で開いた大会が阪神の甲子園で盛況になっている現状を描いたうえ、三崎が小林に語りかけている。
「この分では、日本にプロ野球ができるのも間近いですな」
高田が「これだけの球場ができたことによって、おふたかたの願いが実現する日も近いのではありませんか」とまとめている。
阪神と阪急は同じ大阪―神戸間に電車を走らせ、強烈なライバル意識があった。中等野球(今の高校野球)全国大会開催や、後のタイガース、阪急軍のプロ野球創設でもしのぎを削った。
ただし、この小説での会話で知れるように両社トップは野球に関しては同じ夢を描いていた。野球が繁栄する未来を見ていた。同床異夢とは反対の「異榻同夢(いとうどうむ)」である。
阪神と阪急は経営統合されてもう𝟏𝟖年。阪神タイガースの「親会社の親会社」として阪急阪神ホールディングス(𝐇𝐃)がある。甲子園が連日満員となるプロ野球を、天国から三崎と小林が眺めている。=敬称略= (編集委員)
◆内田 雅也(うちた・まさや) 𝟏𝟗𝟔𝟑(昭和𝟑𝟖)年𝟐月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒。𝟖𝟓年、スポーツニッポン新聞社入社。野球記者𝟒𝟎年を迎えている。