市川雷蔵、歌舞伎界からの追放とその波乱の人生
戦後の日本映画界を代表するスター、市川雷蔵(いちかわ らいぞう)が、37歳という若さでこの世を去った背景には、知られざる苦悩と数々の困難があった。彼は数々の名作を残し、多くのファンに愛され続ける存在であるが、その華やかな舞台裏には、病と闘う姿や家族との絆があった。
市川雷蔵は1931年に生まれ、幼少期から歌舞伎の世界に身を置くこととなる。彼の叔父である三代目川九段寺の影響もあったが、彼は自らの意思で歌舞伎役者の道を歩み始めた。1946年、戦後の混乱の中で初舞台を踏み、その後の彼のキャリアは順調に進展していった。特に1955年に『新・平家物語』での演技が注目を集め、瞬く間に映画界のスターとなった。
しかし、彼の成功の裏側には、家族の期待や自身の健康問題があった。1968年から体調を崩し、撮影中に下血を起こすなど、病魔が忍び寄っていた。最終的には肝臓癌と診断され、余命宣告を受けたが、彼はそれを妻の正子には隠していた。病気に苦しむ中でも、映画に戻りたいという強い思いを抱えながら、彼は抗がん剤治療を続けた。
1970年、彼は再び体調を崩し、最期の時を迎える。妻の正子の腕の中で静かに息を引き取った彼の死は、映画界にとって大きな損失であった。その後、正子は夫の言葉を守り、公の場に出ることを避けながら、長い沈黙を貫いた。
市川雷蔵の死後、彼の名跡は事実上空席となり、歌舞伎界でもその存在価値を深く感じさせることとなった。彼の人生は短かったが、映画界における影響力は今もなお色褪せない。夫の死から40年後、正子は彼の思い出を綴った本を出版し、彼の姿を初めて公にしたことで、多くの感動を呼んだ。
市川雷蔵の子供たちのその後も注目されている。息子は喫茶店を経営し、父の名にちなむ名前を持つが、芸能界には進まなかった。娘たちについては、ほとんど情報がなく、静かに暮らしているようだ。このように、市川家は雷蔵の影響を受けながらも、自らの道を歩んでいる。
市川雷蔵の人生は、華やかな舞台の背後にある苦悩と、家族との深い絆を物語っている。彼の名は、これからも日本の映画界、歌舞伎界で語り継がれていくことだろう。